ヨーロッパの国王

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    ヨーロッパの国王

    スペイン国王
    フアン・カルロス1世(西:Juan Carlos I、1938年1月5日 - )は、スペインの国王(在位:1975年 - )。
    全名はフアン・カルロス・アルフォンソ・ビクトル・マリーア・デ・ボルボーン・イ・ボルボーン=ドス・シシリアス(Juan Carlos Alfonso Victor Maria de Borbon y Borbon-Dos Sicilias)。
    父(バルセロナ伯フアン) 、母方の祖父(両シチリア王子カルロ)、父方の祖父(アルフォンソ13世)、父方の祖母(ビクトリア・エウヘニア)、母(マリア・デ・ラス・メルセデス)からそれぞれ名前がとられている。
    しばしばカルロス国王と略称されるが、適切な呼び名とはいえない。
     
    略歴
    生い立ち
    祖父であるスペイン・ボルボン(ブルボン)朝のアルフォンソ13世は1931年までスペイン国王だったが、スペイン第二王政はスペイン革命により終わりを迎え、スペイン内戦を経てフランシスコ・フランコが独裁者として国を治めることになった。
    その後スペイン王家一族はイタリア王国の首都であるローマへ亡命した。
    そのような状況の下、フアン・カルロスは1938年に亡命先のローマで、アルフォンソ13世の三男(または四男)バルセロナ伯フアン・デ・ボルボーン・イ・バッテンベルグ(1913年 - 1993年)と、旧両シチリア王国の王族マリア・デ・ラス・メルセデス(1910年 - 2000年)の間の第2子(長男)として生まれる。
    フアン・カルロス王子は、第二次世界大戦の終結後のイタリアにおける、国民投票の結果を受けた共和制移行とそれに伴うイタリア王室の国外追放を受けて、1948年にスペインへ戻り、フランコの庇護の下、フランコ亡き後の指導者になるべく教育を受けた。
    帰国後はサン・セバスティアンで初等教育を受け、陸軍に入隊した。
    その後、マドリード大学で学んだ。
     
    即位
    1975年11月20日にフランコが死去すると、フアン・カルロス1世はフランコの遺言に従って同年11月22日に即位した。
    即位前にフランコの庇護の下で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま国王を筆頭とした独裁体制を採るかと思われた。
    しかし即位後はフランコの独裁政治を受け継がず、一転して他のヨーロッパの立憲君主国を模範とした政治の民主化を推し進めた。
    国王の姿勢は、フランコの葬儀の時に参列したチリ大統領アウグスト・ピノチェトをすぐさま追い返すなど、早くからその片鱗が現れていた。
    1977年には41年ぶりに総選挙が行われ、1978年に新憲法が承認されて立憲君主制に移行した。
    新憲法では、国王は儀礼的な役割を果たすのみとされ、独裁体制に終止符が打たれ、スペインにおける独裁政治の解体と民主政治確立に大きな功績を残した。
    1981年のアメリカ訪問では、ニューヨーク近代美術館に「貸与」していたパブロ・ピカソの『ゲルニカ』の返還を要請し、これによって『ゲルニカ』はニューヨーク近代美術館からプラド美術館を経て、ソフィア王妃芸術センターに安住の地を得ることになった。
     
    クーデター未遂事件
    1981年2月23日には、国王独裁の復活を求めるアルフォンソ・アルマダ・コミン陸軍参謀次長の信任を受けたアントニオ・テヘーロ中佐とグアルディア・シビル中佐が率いる約200人の陸軍兵士により議会が占拠され、アドルフォ・スアレス首相ら内閣閣僚と議員350人が人質に取られるクーデターが発生した(23-Fと呼ばれる)。
    しかし国王はこの申し出を拒否し、直ちに全軍の指揮官に対してこのクーデターに賛同しないよう呼びかけると同時に、テレビで国民に平静を呼びかけ、民主制の維持を図った。
    また、翌24日には陸軍兵士らも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
    このとき、感想を問われ「自分の給料分、働いただけさ」とスマートに答えた。
    しかしフアン・カルロス1世の非公認の「伝記」を著したパトリシア・スベルロ(Patricia Sverlo)によれば、「このクーデターは国内を政治的に安定させ国王の人気を高めるために仕組まれたものであった可能性もある」という。
    ともあれ、その後も国王としてのフアン・カルロス1世の人気は絶大で、2005年に「エル・ムンド」紙によって行われたアンケートによれば、国王に対して「良い」あるいは「非常に良い」印象をもっている国民は 77.5% に達している。
     
    ベルギー国王
    アルベール2世(Albert II、1934年6月6日 - )は、ベルギーの第6代国王(在位:1993年 - )。
    第4代国王レオポルド3世の第3子。
    第5代国王ボードゥアン1世の弟。
    全名はアルベール・フェリックス・アンベール・テオドール・クリスティアン・ウジェーヌ・マリー(フランス語:Albert Felix Humbert Theodore Christian Eugene Marie)。
     
    略歴
    即位前はリエージュ公の称号を持っていた。
    兄のボードゥアン1世には子供がいなかったため、長らく推定相続人の立場にあった。
    1959年7月2日、イタリアのルッフォ・ディ・カラブリア公フルコの娘であるパオラ・ルッフォ・ディ・カラブリアと結婚した。
     
    子女
    パオラ王妃との間には3子がいる。
    フィリップ王子(1960年 - )
    アストリッド王女(1962年 - )
    ロラン王子(1963年 - )
    ほかに既婚の貴族の女性との間に庶子を持つ。


    スウェーデン国王

    スウェーデン国王
    カール16世グスタフ(Carl XVI Gustaf, Carl Gustaf Folke Hubertus Bernadotte, 1946年4月30日 - )は、スウェーデン・ベルナドッテ王朝の第7代国王(在位:1973年 - )。
     
    略歴
    出生
    スウェーデン前国王グスタフ6世アドルフの長男グスタフ・アドルフ(1947年1月、飛行機事故で亡くなる)を父とし、ザクセン=コーブルク=ゴータ公カール・エドゥアルトの娘シビラを母とする。
    1946年6月7日に王立教会でウプサラ大司教であるアーリン・エイデムによって洗礼を受け、「イェムトランド公」の称号を与えられた。
    代父母にはフレゼリク9世、イングリッド・アヴ・スヴェーリエ、オーラヴ5世、ユリアナ、グスタフ5世、フリードリヒ・ヨシアス、グスタフ6世アドルフ、ルイーズ・マウントバッテン、フォルケ・ベルナドッテ、マリア・ベルナドッテがいる。
     
    王太子時代
    1950年に前国王が高齢で即位した時、第1王位継承権者であるカール・グスタフはまだ4歳の幼児だった為、前国王を最後に王制を廃止することも議会で議論された。
    しかし共和制への移行は否決され、正式にカール・グスタフが王太子となる事が決まった。
    高校卒業後は、スウェーデン軍において2年半にわたって教育を受け、1968年にスウェーデン陸海空軍大尉に任官した。
    その後は、ウプサラ大学とストックホルム大学において、歴史学、社会学、政治学、税法を学んだ。
    大学での教育を修了した後は、将来の国王としての役割を果たす事に備える為、裁判所制度や社会団体、労働組合、業界団体など幅広い分野への研究に従事し、特に議会や行政、外交に関する研究には非常に熱心に取り組んでいた。
    他にも、国際連合や国際開発協力庁におけるスウェーデン代表の一員として過ごしたほか、ロンドンでは銀行やスウェーデン大使館、フランスでは自国の商工会議所やアルファ・ラバルの現地法人の工場などで体験就労を行った。
     
    即位
    1973年9月15日に、カール・グスタフは祖父の後を継いで国王となり、4日後の9月19日にストックホルムの王宮で即位式が執り行われた。
    翌年のスウェーデン憲法改正ですべての統治権力を喪失し、儀礼的な国家元首の地位となった。
     


    スウェーデン国王2
    家族
    即位前年の1972年、ミュンヘンオリンピック観戦の際、現地でカール・グスタフ王子の世話を担当したのがジルフィア・ゾマラート(母方はブラジル人)、すなわちシルヴィア現王妃だった。
    これをきっかけに交際が始まったが、当初は年上でドイツ人の一般市民ということもあり、結婚にこぎつけるのは大変なことであった。
    しかし1976年6月19日、2人は晴れて結婚する事となった。
    1982年には、公邸をストックホルム郊外のドロットニングホルム宮殿に移し、それまで住んでいたストックホルム宮殿は公務の場とする事となった。
    また夫妻は、
    ヴィクトリア(1977年 - )
    カール・フィリップ(1979年 - )
    マデレーン(1982年 - )
    の1男2女をもうけた。
    1980年1月1日からは、長子相続制に基づいて、ヨーロッパでは初めて男女に関わらず最初に出生した子供に法定推定相続人の権利が与えられる事となり、2008年現在の王位継承順位第1位は長女のヴィクトリア王女である。
     
    その他
    長年、ディスレクシアを抱えているのではないかとの噂が流れていた。
    とあるジャーナリストは、国王が継承文書に署名する際、自身の名前を誤って綴った事と、1973年にファールンの銅山を訪問し、岩壁に署名をする際に、自身の名前を“Cal Gustf”と書いた事に言及した。
    これらの事に関しては、シルヴィア王妃が1997年に出演したテレビ番組のインタビューの中で正式に認めている。
    同時に、夫妻の子女達も軽度のディスレクシアを抱えている事も公表している。
    1975年6月25日から1977年2月9日までの間、イギリス海軍の名誉元帥を務めていた事がある。
    毎年開かれるノーベル賞やポーラー音楽賞の授与式では、プレゼンターとしての役割を務めている。
    大変なスポーツ好きで、オリンピックやノルディックスキー世界選手権など頻繁にスウェーデンチームの応援に駆けつける事で知られている。
    自動車にも深い造詣があり、複数のポルシェ・911のほか多数の車を保有している。
    ちなみに、結婚前の夫妻が最初にマスコミによってスクープされた写真は、2人でポルシェ・911の座席に座っているところだった。
    2005年の夏に、ノーショーピングで自身が運転する車が事故に巻き込まれ、軽傷を負った事がある。
    日本へは、1990年に旭川国際バーサースキー大会(現・バーサーロペットジャパン)のために来日したことがある。
    また2007年3月25日にシルヴィア王妃とともに訪問し、翌3月26日には今上天皇・皇后との晩餐会に臨み、国立科学博物館や太田記念美術館、SONYの本社などを視察したほか、川越市や長崎市を訪れた。
       

    ノルウェー国王
    ノルウェー国王
    ハーラル5世(Harald V, 1937年2月21日 - )は、ノルウェーの国王。
    1991年1月17日に即位した。
    前ノルウェー国王オーラヴ5世の子。
    早稲田大学から名誉法学博士号を贈られている。
     
    来歴
    1937年、オーラヴ王太子(当時)とマッタ妃の第3子として誕生。
    ノルウェーでは実に567年ぶりの王子誕生である。
    第二次世界大戦中、父と祖父ホーコン7世はロンドンに亡命政府を樹立したためイギリスにいたが、ハーラルと母、姉妹たちはワシントンD.C.で生活した。
    終戦後の1945年に帰国。
    高校卒業後、ノルウェー騎兵将校訓練学校・陸軍士官学校へ進み、1959年に軍隊教育を修了した。
    1957年9月21日、祖父王の崩御にともない、同日に20歳で王太子となる。
    オスロ大学で学んだ後、兵役終了とともにオックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学した。
    1968年8月29日、オスロのデパート経営者の娘(=平民)であるソニア・ハーラルセンと結婚。
    9年間もの交際を経た恋愛結婚、一般市民との結婚のハードルがいかに高かったが伺える。
    無論前例はなく、政府と王室は、同様に資産家の令嬢とは言え旧華族ではない正田美智子を皇太子妃に迎えた日本の皇室を参考に、協議を重ねたという。
    1991年1月17日、父王オーラヴ5世の崩御に伴い、国王に即位。
    6月23日、トロンハイムのニーダロス大聖堂で戴冠式が行なわれた。
    2003年1月に膀胱癌が発見され、12月8日に手術を受けた。
    それまでチェーンスモーカーとして知られていたが、病気をきっかけにきっぱりやめた。
     
    人物像
    スポーツマンとしても有名で、ヨットの選手としてオリンピック出場経験がある。
     
    子女
    ソニア王妃との間に2子がいる。
    マッタ・ルイーセ王女(Martha Louise)
    ホーコン・マグヌス王太子

    不倫
    オランダ女王
    ベアトリクス(Beatrix Wilhelmina Armgard van Oranje-Nassau, 1938年1月31日 - )はオランダの現女王(在位:1980年 - )。
    ユリアナ女王の長女。
     
    来歴・人物
    現女王ベアトリクスはバールン(Baarn)で生を受けた。
    1940年、ナチス・ドイツのオランダ侵略で祖母ヴィルヘルミナ女王、母ユリアナと共にイギリスへ亡命し、その後、遠縁であるカナダ総督夫人アリスを頼り、カナダへ渡った。
    そのため、初等教育をカナダで受けている。
    1945年、戦争が終わり王室は本国に帰還、1948年母ユリアナが即位し、ベアトリクスは王位継承者となった。
    ライデン大学で学ぶ。
    1966年3月10日、ドイツ人外交官クラウス・フォン・アムスベルクと周囲の、ナチスの禍根からドイツ人への反発を恐れての反対を押し切り結婚、皮肉なことに夫君クラウスは後に国民の人気を集めるようになった。
    1967年、王家では百数年ぶりの男子であるオラニエ公ヴィレム=アレクサンダー王太子を出産。
    次いでヨハン・フリーゾ王子、コンスタンティン王子が生まれた。
    1980年、ユリアナ女王の譲位でベアトリクスは女王に即位し、2002年に最愛の夫である王配クラウスが薨去、さらに2004年には母ユリアナが崩御し、父ベルンハルトが薨去した。
    公務の一環として、毎週首相と政治に関する会談をするため、大変な政策通である。
    また気丈な性格であり、政策の面で一致が見られなかった閣僚を解任すると警告を発したこともあった。
     
    日本との関係
    1986年に日本訪問の計画があったが、在位中の昭和天皇は反日感情のあるオランダ人にとって戦争犯罪人と見なされていたために国内世論の反発で中止した。
    昭和天皇崩御後、1991年10月、歴代オランダ国王として初めて日本を公式訪問。
    天皇が主催した晩餐会のスピーチでは第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について言及したこともある。
    ただし、日本及び日本皇室との関係は基本的には良好である。
    先述の晩餐会時のスピーチでも戦争に関する部分はごく一部にとどまり、翌年3月に開業を控えていたハウステンボス等の現在の好ましい関係を強調している(ハウステンボスについては、自らの居所であるハイステンボス宮殿の忠実な再現及び同名の命名を許している)。
    2006年夏には皇太子徳仁と妃雅子ら一家の長期静養を受け入れ、滞在中も種々配慮をしている。
    不倫という文化があるでしょうか。


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