エリザベス2世

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    エリザベス2世

    エリザベス2世
    エリザベス2世(Elizabeth II, フルネームはエリザベス・アレクサンドラ・メアリー・ウィンザー、 Elizabeth Alexandra Mary Windsor)1926年4月21日 - )は、
    グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)、オーストラリア、ニュージーランド、バルバドス、カナダ、ジャマイカ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、バハマ、グレナダ、セントクリストファー・ネイビス、アンティグア・バーブーダ、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、バミューダ諸島、ベリーズの女王(在位:1952年2月6日 - )[1]
    イギリス連邦元首
    イギリス国教会の長
    である。
    ジョージ6世と王妃エリザベスの長女。
    夫君(王配)はエディンバラ公フィリップ。
    ただしフィリップは共同君主・共同統治者ではない。
    2007年12月20日に父方の高祖母たるヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最高齢の君主となった。
     
    略歴
    生い立ち
    1926年に、ロンドンのメイフェアにおいて連合王国国王ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート(後のジョージ6世)と妃エリザベス・バウエス=ライオンとの間に第1子として生まれる。
    出生時において、伯父の王太子エドワード、父に次いで第3位王位継承者であったが、当時独身のエドワード及びその子供への王位継承が期待されており、彼女の即位を予想する者はいなかった。
     
    王女時代
    しかし、1936年1月のジョージ5世の死去を受けて国王に即位したエドワード8世が、イギリスと対立しつつあった枢軸国に親近感があるような態度をとった上、離婚経験のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかしたことを受けて、スタンリー・ボールドウィン首相らに退位を迫られ、同年12月に退位してしまう(“王冠を賭けた恋”として知られる)。
    そしてエドワードの弟でエリザベスの父であるアルバート王子がジョージ6世として国王に即位する。
    これを受けてエリザベスは一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、王位の推定相続人となる。
    エリザベスは慣例通り、学校へは通わず妹マーガレットとともに宮廷で教育を受けた。
    1936年に推定相続人となって以降は、特に法律・歴史・フランス語を中心に勉強した。
    一方、ガールスカウトなどに参加し、同年代の子供とも積極的に関わっていた。
    1939年に勃発した第二次世界大戦中、ドイツ軍によるロンドン空襲が続く1940年にはウィンザー城へ疎開する。
    この際、BBCを通じて初めて演説を行ない、以後王位継承者として少しずつ公務に携わっていく。
    1942年には近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。
    各地への訪問・激励の他、「エリザベス・ウインザー」の名で軍用車輌の整備などに従事した。
    第二次世界大戦におけるイギリスの勝利後の1947年11月にウェストミンスター寺院で、ギリシャ及びデンマークの王子フィリップと結婚した。
    1939年に遠縁のフィリップ王子と会った際、王女は一目で恋に落ちたのだと言う。
    結婚後の数ヶ月間を当時英国領だったマルタで過ごした。
    その後フィリップとの間には、チャールズ王太子ら4人の子に恵まれた。


    女王時代

    女王時代
    生来病弱であった父ジョージ6世の健康状態は1951年に入り悪化し、翌1952年2月6日にオーストラリアとニュージーランド公式訪問の途上、ケニア滞在中に崩御した。
    これを受けて直ちにエリザベスは女王に即位して「エリザベス2世」となり、同名の母エリザベスは「エリザベス王太后」となる。
    翌1953年6月2日にはウェストミンスター寺院で戴冠式が行われ、この模様はイギリス連邦内だけでなく、世界各国に当時の最新メディアであるテレビにより中継された。
    以来55年にわたりイギリス女王の座にあり、「国民に親しまれる王室」を目指し、即位後は積極的にイギリス連邦諸国のみならず日本やアメリカ、フランスなどの諸外国を訪問するほか、私生活をテレビで放送するなど新しい試みを行った。
    その一方で超然たる一面を持ち、マーガレット・サッチャー首相が「女王と服装を合わせたい」と希望した際には、「臣下の服装に興味はありません」と一蹴したという。
    2006年に80歳を迎えたが、現在も精力的に公務を行っている。
    2007年5月、英国植民地設立400周年を記念してアメリカを訪問した。
    同年11月19日には結婚60周年を祝う祝賀行事が催された。
    イギリスの君主で結婚60周年を迎えるのは、エリザベスが史上初である。
    翌日からは新婚時代を過ごしたマルタを訪問したが、一泊した後、イギリス連邦首脳会議のためウガンダへ出発した。
    近年は、息子たちの離婚・再婚問題や孫ヘンリー王子のスキャンダルなどに苦悩が絶えない。
    一方でそんな女王の人気はイギリス国内でも高く、国民の間でも退位を望まず「最後まで女王でいて欲しい」などの声も大きい。
     
    称号
    エリザベス2世はイギリスを含め16の国家の女王・元首であり、それぞれの国で異なる正式称号を持っている。
    イギリスにおける正式称号は以下のものである。
    Her Majesty Elizabeth the Second, By the Grace of God of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland and of Her Other Realms and Territories Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith 直訳は『神の恩寵において、グレートブリテンおよび北部アイルランドの連合王国ならびにその他の王国・領土の女王、英連邦の元首、信仰の擁護者にあらせられるエリザベス2世陛下』。
    「信仰の擁護者」はマルティン・ルターに反対したヘンリー8世に対し、ローマ教皇レオ10世から与えられた称号。
    1534年の国王至上法によりイングランド国教会首長の称号となった。


    論点
    論点
    このため、法的に厳密に考えると、相互に反対の意見を持っている国の元首としての顔を持つことになる。
    たとえば2003年に勃発したイラク戦争では、同戦争に賛成したイギリスやオーストラリアなどの元首という立場を持つ一方で、同戦争に反対したカナダの元首として行動することもできる。
    実際にイギリス以外の国の元首として行動することもあるので(特にその国に滞在している場合:たとえばカナダ滞在中はカナダ女王として、オーストラリア滞在中はオーストラリア女王として、パプアニューギニア滞在中はパプアニューギニア女王として行動する)、この問題は非常に複雑であると言わざるを得ない。
     
    過去の称号
    1926年4月21日 - 1936年12月11日 ヨーク公爵嬢エリザベス殿下(Her Royal Highness Princess Elizabeth of York) 1936年12月11日 - 1947年11月20日 エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth) 1947年11月20日 - 1952年2月6日 エジンバラ公爵夫人エリザベス王女殿下(Her Royal Highness The Princess Elizabeth, Duchess of Edinburgh) 1952年2月6日 - 女王陛下(Her Majesty The Queen)    

    子女
    子女
    フィリップとの間にはの3男1女がいる。
    チャールズ王子(1948年 - ) - 王太子(ウェールズ公)
    アン王女(1950年 - ) - プリンセス・ロイヤル
    アンドルー王子(1960年 - ) - ヨーク公爵
    エドワード王子(1964年 - ) - ウェセックス伯爵
     
    女王と競馬
    欧州での競馬のイメージは日本のそれとは大きく異なる。
    エリザベス2世も競馬ファンとして知られており、王室が開催するロイヤルアスコット開催時には毎年宮殿から馬車でアスコット競馬場へ向かうのが慣例である。
    ちなみにロイヤルアスコット開催のレースで優勝した優勝馬関係者はエリザベス2世など出席のイギリス王室主催のお茶会に招かれる。
    また、エリザベス2世は馬主としても多く馬を所有しており、自身の所有馬が出走する時競馬場に出向くことも多々ある。
    イギリスの「クイーンエリザベス2世ステークス」、アメリカ合衆国の「クイーンエリザベス2世チャレンジカップステークス」、日本の「エリザベス女王杯」、イギリスの植民地であった香港の「オードマピゲ・クイーンエリザベス2世カップ」等世界各地にエリザベス2世の冠と付く競走が多く存在している。
     
    主な所有馬
    Aureole(オリオール) - キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。
    この馬が活躍した1954年はイギリス首位馬主に
    Highclere(ハイクレア) - 1000ギニー、ディアヌ賞(仏オークス)。
    日本ではディープインパクトの曽祖母として知られる
    Dunfermline(ダンファームライン) - オークス、セントレジャーステークス(アレッジドを破る)
    Height of Fashion(ハイトオブファッション) - ナシュワン、ネイエフなどの母
    Pall Mall - 2000ギニー

    逆援助
    逸話
    執務の一環として、老若男女あらゆる階級から届けられた中で厳選された手紙を読む。
    内容は主に女王に対する願い事。
    また最近では電子メールにも目を通している。
    即位50周年記念に、イギリスの自動車製造者協会からベントレー・ステート・リムジンが公用車として進呈された。
    愛犬家であり、少女時代に父王ジョージ6世が遊び相手として与えたことから、現在もウェルシュ・コーギー・ペンブロークを飼っている。
    その他にレトリーバーも飼っている。
    国内旅行時には、可能な限り愛犬達を同伴する。
    コーギーを飼っていた日本人が出した手紙に女王の名代で返事の手紙が来たことがある。
    「クイーン・エリザベス」というバラが即位の年に出された。
    在位50年の記念の年には「ジュビリー・セレブレーション」というバラが贈られている。
    若い頃に熱中したことがきっかけでクロスワードパズルを解く事が趣味。
    毎朝目を通す新聞(サン紙などのタブロイドも含む)に掲載されているクロスワードを空き時間などに解く。
    孫のウィリアム王子が恋人ケイト・ミドルトンからクリスマスプレゼントとして贈られたWiiを気に入っており、『Wii Sports』のボウリングでは83歳には思えない実力を披露したと言われる。
     
    ウィンザー朝
    ウィンザー朝(House of Windsor, 1917年 - )は現在のイギリス王朝。
    サクス=コバーグ=ゴータ朝(House of Saxe-Coburg-Gotha)の後身。
    ハノーヴァー朝の後身と見なされることもある。
     
    歴史
    ウィンザー家の元の家名はサクス=コバーグ=ゴータ家といった。
    これはヴィクトリア女王の夫(王配)アルバートの家名(その英語形)であった。
    アルバートはドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の息子であったが、この家系からはベルギー、ブルガリア、ポルトガルの王家も出ている。
    第一次世界大戦中の1917年、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠された家名を避け、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。
    そのため、1917年以降は現在の女王エリザベス2世にいたるまでをウィンザー朝と称する。
    ただし、ヴィクトリア女王の血統が断絶したわけではないので、いずれもハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。
    代々の王位継承者の配偶者はドイツ人やドイツ系の王族が迎えられることが多かったが、現チャールズ皇太子の先妻ダイアナ妃は初の純イングランド人となる。
    なお1960年にエリザベス2世と夫君フィリップ・マウントバッテン(Philip Mountbatten)公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザー(Mountbatten-Windsor)とする勅令が発せられた。
    将来順当に女王の嫡子であるチャールズ・マウントバッテン=ウィンザー(チャールズ王太子)が即位した時には王朝名はマウントバッテン=ウィンザー朝に変わる。
    そのためエリザベス2世が最後のウィンザー朝イギリス女王となる公算が大きい。
    逆援助という概念はありえない。


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